「再びプレイバックシアターと私」
2001.5.21:コラム…「CHRニュース」Vol.10より
●再びプレイバックシアターと私
以前にもプレイバックシアターのことを書きました。その続きです。私は1989年以来、創設者のジョナサン・フォックスからプレイバックシアターを学びつづけて参りました。1995年には、ニューヨークにスクールができ、日本からも数名が学び卒業しました。私よりあとから学び始めた人達が、何度もニューヨークに行くのを、うらやましく思い、日本にスクールを作って欲しいとお願いし、ジョナサンも考えてくださっていました。ところがある年、もう日本には来ないことになりました。毎年秋にはジョナサンに会うことを楽しみにしていた私にとって、これは一大事です。どうしたものか、みんなはどう考えているのか。レギュラーの人たちに問い合わせても、反応がありません。
そこで、英語が堪能でプレイバックを愛する人の協力を得て、ジョナサンに手紙を書きました。日本でプレイバックを続ける方法のいくつかを提案しました。それまでジョナサンを日本に呼んでいた機関とも、良い関係は続けていきたいですし、苦労しました。
念願かなって、スクール・オブ・プレイバックシアター日本校が出来たのは、1998年の秋でした。
スクールを卒業する為のカリキュラムがあります。私は、それまで9年続けて学んでいましたので、基礎となる部分は免除だったのですが、お金と時間のある限り、ほとんどのコースに参加しました。長い時で、3週間くらい合宿に入っていました。途中1日か2日仕事をしてはまた合宿に戻るという生活です。
ニューヨークでは1回のコースは3週間くらい続けるのですが、日本人には無理なので、日本に合わせたプログラムができました。そして、最終のリーダーシップコースTが昨年秋に1週間の合宿で行われ、今年のゴールデンウィークに6泊7日でリーダーシップコースUが行われました。これで全てのコースは終了ですが、それとは別に課題がありました。この課題を提出しないと、いくら合宿に参加しても卒業は出来ないのです。その課題というのが、@サイコドラマ100時間体験。Aプレイバックシアターに関する論文。Bプレイバックシアターに関する課題を自分で見つけ実践し、報告書を書く。C創作活動として芸術的な課題に挑戦する。
●課題との戦い
課題は2年前のプラクティスコースUの時に説明を受けていましたが、会社員、公務員、経営者、僧侶、企業研修講師、カウンセラーなど、どうしても仕事優先の人ばかり。サイコドラマ100時間は私の場合は早い時期に終えていましたが、論文などはぎりぎりになって真剣に取り組みはじめ、毎晩遅くまで頑張り、前日までにようやく全て完成させました。
行ってみると、半数の人が未完成で、合宿中も毎晩遅くまで必死の状態でした。期限が決められて、その時刻までに提出できないと卒業証書はもらえないことになり、私もできるところは手伝いました。
創作活動は全員の前で発表しましたが、みんなの才能とエネルギーにびっくり。ある人はアイルランドからアイリッシュハープを買ってきて練習して臨み、ある人はアフリカから太鼓を買ってきて、音大の先生に出張指導を受け、自作の曲を披露しました。またある人は鼓に挑戦。私はプレイバックシアターで演じられたストーリーを短歌に詠み半紙に毛筆で書いてもっていきました。
●感動の卒業式
永年一緒に学んできた14人が晴れて1期生として一緒に卒業証書をもらうことができました。必死で頑張った後でしたので、全員が揃って卒業できたのは本当に喜びでした。ここに至るまでには、メンバー間の葛藤が表面化したり、最後のコースの参加を止めた人もあったり、さまざまなドラマがありました。
最終日の5月8日は卒業式でした。アメリカ式と日本式ミックスの厳粛なものです。合宿中私達はいつもTシャツなどラフなスタイルですが、この時はドレスアップして見違えるようでした。在校生代表として2期生の一人から送辞があり、ならば答辞が必要でしょうと急にみんなの視線が私に集まり、プレイバック式に即興で応えました。一人ずつ卒業証書をもらってスピーチをするのですが、それぞれが喜びを語り、ジョナサンと抱擁したり握手をしたり、みんな涙でぐちゃぐちゃでした。最後に"仰げば尊し"をうたいましたが、この年になってこんな感動的な卒業式を体験するなんて思っても見なかったことです。
私には向かないものと、プレイバックの案内にそっぽを向いていた私の思いがけない10数年後の姿です。